ホーム > 雲天寺について

浄土宗の宗祖・開宗

 宗祖 法然上人(源空)
 開宗 承安5年(1,175年)
 本尊 阿弥陀如来
 

浄土宗の教え

阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。 

浄土宗のお経

お釈迦さまがお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三部経をよりどころとします。 

雲天寺の由緒沿革

織田・徳川連合軍と武田軍との長篠の戦いが起こった戦国の世、当山は安土桃山時代の天正3年(1,575年)に、載蓮社乗譽上人(載蓮社乗譽願求良谷和尚)によって開創されました浄土宗の寺院です。

江戸時代には、正八幡宮の別当を務めるなど浄土宗寺院としては異例の立場にありました。

山号を八幡山(はちまんざん)としており、院号、寺号を含めて正式には「八幡山清浄院雲天寺(はちまんざんしょうじょういんうんてんじ)」と称し、関東十八檀林の飯沼弘経寺(茨城県常総市;大本山増上寺別院)の末寺として開創され、山号は慶安年間に飯沼弘経寺第13世以傳上人より賜っております。

飯沼弘経寺の末寺として開創されたことから、かつては「飯沼流」と呼ばれるお経やお念仏の称え方を用いていた時代がありました。(現在でも飯沼流の称え方を用いる寺院があります。)

当時は、現在の守谷駅周辺(守谷市中央、本町)に5,500坪を超える広大な寺領を有しておりましたが、農地改革などにより、現在の寺領(約1,450坪)に至ります。

本尊は阿弥陀如来(立像)で、飯沼弘経寺にて檀通上人に仕えていた祐天上人をはじめとした多くの僧侶により、寛文9年(1,669年)本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)にて入仏供養されました。

現在では、祐天上人が大本山増上寺第36世法主であられたお姿を刻まれた木像「祐天上人坐像」、祐天上人真筆の六字名号掛軸、江戸時代中期に流行した十王説に基づき描かれた閻魔王などの地獄変相図「十王図」が残っております。

近代になり、明治6年(1,873年)に守谷小学校の前身である徳入学校・糺学校が雲天寺末庵「糺嶺庵」に設置され、翌年の明治7年(1,874年)には場所を雲天寺に移し「中山学校」が設置されました。

そして、平成8年(1,996年)から9年(1,997年)に亘り、第40世住職により、現在の本堂、客殿、庫裏、境内の再建・落成が実施されております。

また、現在は法類寺院である淨泉寺と法務・法事等を共有して執り行っております。

※ 令和7年(2,025年)で、開創450周年になります。


淨泉寺本堂建設について(令和6年1月完成予定)
淨泉寺本堂建設について

雲天寺の寺宝

雲天寺の扁額

萬治年間に、本寺である飯沼弘経寺の第13世以傳上人より、「八幡山」という山号を賜り、この扁額の文字は以傳上人にご染筆いただいたものです。

当山は、山号を「八幡山(はちまんざん)」、院号を「清浄院(しょうじょういん)」、寺号を「雲天寺(うんてんじ)」と称します。

扁額は、当山本堂拝殿にてご覧いただけます。

地獄変相図(十王図)

源氏物語のモデルにもなった天台宗の名僧 恵心僧都源信上人の説かれた「往生要集」には、人は死を迎えた後に極楽往生するためには、お念仏の実践が最重要であることを示され、浄土教の基礎を築かれました。

そして、この中で地獄と極楽の観念、厭離穢土(えんりえど)と欣求浄土(ごんぐじょうど)の精神により、当時から今日まで広く影響を与えてきました。

「往生要集」の巻上では、壮絶なまでの地獄の様相に加え、対照的に仏の尊さや恵みの有難さを思い知る浄土の十楽が説かれています。この中で示される「地獄」には、亡者を裁く10尊がおり、それがいわゆる「十王」なのです。

当山の地獄変相図(十王図)は、江戸時代中期の作と伝えられ、絵師は不明です。十王、奪衣婆(だつえば)、亡者や餓鬼(がき)などが生々しく描かれており、当時の六道に対する恐怖を感じる取ることができます。

  • 拝観は事前予約が必要です。

祐天上人坐像

寺宝『祐天上人坐像』は、当山と祐天上人とのご縁により、上人のお弟子祐全上人より寄進されたものです。

寺伝によると、上人真筆の六字名号(『南無阿弥陀仏』)掛軸が、寛政9年5月(裏書)に寄進され、併せてこの坐像が寄進されたと伝えられています。上人がご遷化された享保3年(1,718年)より約80年が経ってからのことです。

全国には19体の上人肖像彫刻が現存しており、そのほとんどが緋色の衣を纏っていることから大本山増上寺第36世法主(正徳元年(1,711年)~)のお姿の肖像と伝えられてきました。

当山寺宝の坐像も緋色の衣を纏っておりますが、唯一珍しい点は袈裟(七条袈裟)に三つ葉葵のご紋が描かれていることです。

その当時は彫刻や書画等に三つ葉葵どころか葵を使ったご紋を描くことは徳川家の命などがない限り許されるものではありませんでした。

さらに、坐像とともに厨子も残されており、その厨子の両扉にも三つ葉葵のご紋が描かれております。  

  • 拝観は事前予約が必要です。

祐天上人真筆六字名号掛軸

寛文9年(1,669年)の本堂落慶入仏供養一七日(七ヵ日説法)にてご縁をいただいた当山に対し、祐天上人のお弟子であられる祐天寺第6世祐全上人より、祐天上人真筆の六字名号掛軸が寄進されました。

この名号掛軸は裏書に示される通り、寛政9年(1,797年)に寄進されております。

また、この名号掛軸とともに、祐天上人坐像(木像)が寄進されたと伝えられています。

この名号掛軸には、祐全上人による裏書があります。

  • 六字名号掛軸の一般公開はしておりません。

寛文9年(1,669年)に当山に来山された際に、檀信徒に贈られた名号掛軸

現在でいうサインのように短冊状用紙に書かれた名号掛軸で、当山檀信徒の多くの方に配られたと伝えられています。

檀信徒の多くは、家屋等建物の新改築、解体、火災焼失などにより紛失しておりますが、数件の檀信徒では家宝として丁重に保管されているところもあります。

大掛軸と比較して、書体が異なっているのが特徴です。

第41世住職挨拶

令和元年11月にて、第40世瑞譽敬典より法燈を継承し、第41世住職を拝命しました覚譽順一でございます。

当山は安土桃山時代である天正3年に開山して以来、約450年の歴史を持つ寺院でございます。

過去には、累などの怨霊を得脱(怪談真景累ヶ淵参照)された名僧祐天上人が、当山にて談義僧として七ヵ日説法を説かれ、現存の本尊阿弥陀如来像の入魂供養を奉修されました。

この歴史ある雲天寺にて、第41世を拝受いたすことは身に余る光栄でございますが、引き続き精進し、当山護持発展、寺門興隆に粉骨砕身の思いで力を尽くす所存でございます。

役員方、檀信徒の皆さまにおかれましては、何卒ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

誠心合掌

第41世住職 下村順一しもむらじゅんいつ

住職略歴

平成 4年 3月 大正大学仏教学部仏教学科浄土学卒業

平成 9年 7月 第30世淨泉寺住職就任

平成16年 4月 関東ブロック浄土宗青年会事務局次長

平成20年 4月 茨城教区浄土宗青年会事務局長

平成22年 4月 茨城教区浄土宗青年会副会長

平成25年 4月 浄土宗茨城教区参事

平成27年 3月 守谷市役所退職

平成29年11月 保護司

平成31年 4月 浄土宗茨城教区常総組組長

平成31年 4月 薬物乱用防止指導員

令和元年 5月 浄土宗茨城教区児童教化連盟事務局長

令和元年 6月 浄土宗関東地区児童教化連盟理事

令和元年11月 第30世淨泉寺住職退任

令和元年11月 第41世雲天寺住職就任

令和 3年11月 守谷市人権施策推進協議会会長