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江戸時代後期までのことで、近隣で悪いことをした人は家に帰れずに雲天寺に連れ込まれ、その者たちの懺悔道場(反省する場)として位置づけられていました。

中には、「牢屋の一歩手前」や「所払い」と呼ぶ方もおりました

当山は江戸時代に「正八幡宮」の別当を務めておりました。

かつて神仏習合の時代、浄土宗寺院としては異例である神社を管理する寺として「別当寺」の役目を担っております。 

当山から約1km離れた下町にある薬師堂は、古文書によると享保9年に刑場跡といわれた場に建立され、本尊薬師如来及び十二神将が安置されました。江戸時代は雲天寺の支配下にあり、管理運営に携わっております。

現在は、下町町内会にて管理されております。

平成8年まで本堂前に設置されていた英霊供養地蔵尊の下には納骨堂があり、無縁となってしまった遺骨を埋葬していた時代がありました。

納骨堂は頑丈な扉で遮られておりましたが、「時折、声がする」とか、「夏でもここは冷たい」、「火の玉を見た」などの噂が絶えませんでした。

これにより、近所の子供たちはここを恐れ、肝試しの場として伝えられ、今でも檀信徒の中には幼き頃、雲天寺には近づくのが怖かったと話される方もいます。 

寛文9年(1,669年)、7日間に亘る当山本堂落慶入仏供養の際、ぼろ袈裟ぼろ衣で談義僧を務められたことにより期待外れだった祐天上人が、当山檀信徒の前にて次々と感動する法話をされたことで、勤めを終えた祐天上人が飯沼弘経寺に帰山する際に今でいう「アイドルの出待ち」のように檀信徒が出口で待ち構えていました。

しかし、祐天上人はそれを知り、裏口から出て帰山しようとしたところ、現在の「土塔」という地にて檀信徒につかまり、大きな石(以後「説教石」と呼ばれます。)の上に立ち、最後の法話をされたという伝えがあります。

また、中にはこの説教石が「土塔」という地名の由来になっているという言い伝えがあります。

昭和61年に遷化した第39世幸典の葬儀式の日のことで、寺族が寝ていた部屋は障子半分下が曇り硝子の扉で囲まれており、丑三つ時の夜中に曇り硝子越しに白い下半身の誰かが歩き回るのを現淨泉寺住職と亡き第40世住職内室が見たそうです。

この現象は何度か続き、家族の中では、「じいちゃん(第39世幸典)が気になって帰ってきたんだ…」と考えるようになり、時折戻ってきてほしいと願った幸せな話が残っております。 

昭和中期頃までは、当山が寺子屋として近所の子供たちの遊び場、勉強する場として位置づけられていました。

かつては境内にて映画上映なども行っておりました。

現在の当山住所は守谷市本町となっておりますが、古くから現在まで残る地名は「上町」といいます。

雲天寺の脇には関東鉄道常総線が走っています。昔は機関車で蒸気排煙を吐き出しながら走っていたことから、藁葺きの屋根であると、排煙の火の粉が降ってきて火災になってしまう理由により、守谷の寺ではいち早く瓦葺き屋根としたという言い伝えが残っております。 

境内左手に大きな桃型の金属製飾り物が残っております。戦前のものと伝えられ、おそらくは仏塔や伽藍などの屋根に設置されていた飾りと考えられております。

直径及び高さが70cmほどある金属製の飾り物で、屋根飾りだったとしたらかなり大きなものとなります。

昔から「寺の桃」と呼ばれ、寺子屋を開設していた時期から遊び道具に使われていたそうです。

未だ、過去の用途は不明で、雲天寺の謎の一つとなっております。

江戸時代初期か惣名主を務めていた齋藤家(徳左衛門)は、元々守谷市百合ケ丘にある長龍寺(曹洞宗)に一族墓を構えていました。

寛文9年(1,669年)、当山に祐天上人が談義僧として訪れた際、祐天上人による七ヵ日説法の聴衆として参加した当時の齋藤家ご先祖さまが、祐天上人の法話に感銘を受け、信仰変えのために当家一族墓のほとんどを長龍寺から雲天寺に移設し、雲天寺の檀家となったと伝えられております。なお、齋藤家の墓の一部は長龍寺に残っております。

また、元々惣名主であった家柄のため、かつて齋藤家には祐天上人関連の古文書等が多く残されておりましたが、納屋の整理等により現存しておりません。

齋藤家には、祐天上人の六字名号掛軸が残っており、毎年お盆になると仏間に掲げているそうです。

さらに、齋藤家と限らず、祐天上人が訪れた際に、今でいう「サイン」のように書かれた六字名号札(長さ20cmほど)を家宝として残されている檀家もおります。

太平洋戦争が開戦して、日本の戦況が厳しくなった昭和19年のこと、物資が不足する中、戦車や銃などの鉄鋼兵器を作るための金属類回収令により、当山の喚鐘は旧日本軍に没収されました。

この喚鐘は、当山第34世岳譽上人のときに檀信徒の寄付の下で作成されたもので、大本山増上寺に有する第9代将軍徳川家重公霊廟の銅灯篭を5組製作している名工である老舗鋳物師「西村和泉守」( 江戸神田村(現在の東京都千代田区神田)にて延宝年間から開業している老舗鋳物師)の作です。

没収されてから75年が経った令和元年、この喚鐘が鋳造されることなくネットオークションに出品されていることが判明し、当山第41世覚譽順一が買い戻しました。