明蓮社顕譽愚心(幼名:三之助) 寛永14年(1,637年)4月8日生誕
 陸奥国岩城郡新倉村出身(奥州磐城の国岩城郡平在の新田村出身という説もあります。)
 現在の福島県いわき市四倉町仁井田に位置します。
 師僧檀通上人のもとで12歳で得度、「祐天(ゆうてん)」という僧名を授かったといわれています。


 明蓮社顕譽愚心祐天上人は奈良、鎌倉両大仏の中興上人、あるいは江戸時代6代将軍徳川家宣公(文昭院)時代の大奥、正室の天英院から女中に至るまで傾倒され、生き仏として崇拝されていた僧侶です。

 また、今日では「累ヶ淵」という怪談話の中で、「累」という女性の怨霊を成仏得脱し、呪術的な能力を備えていたことで有名なのはいうまでもありません。

 祐天上人は、師僧檀通上人の破門により、成田山新勝寺に参篭、その時に夢の中で不動明王より剣を喉に差し入れられ智慧を授かり、呪術的な能力を持ったとされています。
 さて、祐天上人は、雲天寺の歴史においては重要な人物でした。実に現存する本尊阿弥陀如来像は、寛文9年(1,669年)の当山本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の際に祐天上人をはじめとした多くの僧侶により入仏供養され、かつ当山檀信徒を前に「七ヵ日説法」(7日間にわたる説法)を説かれた有難い業績を残されております。

 また、当山には祐天上人が大本山増上寺第36世御法主であられた自らのお姿を刻まれた祐天上人坐像(木像)や、直筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号が残されています。

 祐天上人が下総国(現在の千葉県北部と茨城県南部周辺)に訪れたのは、師僧檀通上人とともに現在の館林市善導寺より移行した寛文8年(1,668年)ごろとされています。師僧檀通上人が4代将軍家綱公の台命により、善導寺より紫衣檀林飯沼弘経寺に栄転した際に随行しています。以前から勉学の熱心さに欠ける祐天上人に対して檀通上人は勘当を命じていたにも関わらずのことであったといわれています。

 祐天上人は弘経寺山門前の行堂万日庵に入り、修行の毎日を送りました。この後、檀通上人は延宝2年(1,674年)、家綱公の台命により二枚紫衣大檀林鎌倉光明寺に栄転し、さらに勘当の解けない祐天上人も下総国を後にし、随行されました。
 時が経ち、祐天上人は5代将軍綱吉公の台命により、元禄13年(1,699年)に再び飯沼の地に戻り、弘経寺の住職となりました。

 『望月佛教大辞典』(5巻P.4916)、また『浄土宗全書』(19巻P.468)によると、
 「翌年飯沼弘経寺に轉じ、紫衣の被着を許さる。」  「超遷弘経寺」
と記されており、飯沼弘経寺の第30世住職になります。師僧檀通上人に随行した頃から30年余り経っていました。この縁ある弘経寺に在寺していたときに、現在の常総市にある法蔵寺の当時住職とともに累怨霊を解脱しており、この怨霊解脱に使った百萬遍珠数(1つの珠の直径が5cmほどある珠数)と、怨霊の遷った累と菊の木像が寄進され、現在もなお残っております。

 『浄土宗全書』(20巻P.840)には
 「菊、累像、祐天公百萬遍珠数有之」
と記されているとおりです。
 さて、飯沼弘経寺の末寺である雲天寺において、祐天上人が「七ヵ日説法」を説かれたのは、飯沼弘経寺の第30世住職になられた時ではなく、以前の師僧檀通上人に随行した時の業績でありました。寛文9年(1,669年)33歳のとき、当時雲天寺住職から本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の談義僧派遣の依頼あってのことで、この際に檀信徒を前に7日間にわたる「七ヵ日説法」を説かれたとされています。

 当山本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)における祐天上人の談義僧派遣においては、『祐天上人御一代記』によると、

 「(略)此度雲天寺入佛供養の願一七日の御名代として其許を遣はされ候をの仰なり御受申上られよと有ければ此は有難き仰せを蒙る物かな御勘當お免しなく共御憐みの御本心是よて迷ひを晴らしたりと取敢ず方丈の肩を伏拜みける扨役僧達は雲天寺に向ひ御名代の談義僧は御勘當の御弟子祐天に候御對面の上御歸寺有べしを言いければ雲天寺祐天を見て扨も年若をいひ斯る小僧を御名代として出さば講中の思わくも如何なり此は辞退せねばと役僧に向ひ段々忝けなく候へ共成べくは御老僧を御遣し下され候様願ひ奉つる云に役僧其趣きを方丈へ申上ければ以の外御立腹にて本寺より申付る事違背に似たり祐天若しを雖も我眼力を以て申付る處なり右不得心ならば入佛延引すべしと仰あるに雲天寺大きな驚き今に至り延引に相成候ては世間の聞に悪く候(略)」

と、師僧檀通上人と当山雲天寺とのやり取りの中で、祐天上人を遣わせることが記されております。

 さらに、同じく『祐天上人御一代記』には、

 「(略)祐天は破袈裟古綿入を着し股引草鞋にて役寮へ参られ是より雲天寺へ罷り越候間御届申なりと暇乞して立出を役僧祐天の姿を見て是餘り見苦しし尤も田舎寺なれども晴の供養なり御所持なくば御貸申さん脱替候へと有けるば祐天答て申さるるは御志ざし忝けなく存候へ共借着など致し身を飾りては奢る心出来れりと師の恩召も計り難く候(略)」

と記されているように、破れ衣に破れ袈裟の様相に、当山檀信徒も薄い期待での始まりだったそうです。

 しかし、『祐天大僧正御伝記』には

 「(略)程なく結願の日に成りければ、十念回向の為、檀通方丈、伴僧数多召連れ、御乗物にて雲天寺に入らせ給ふ。祐天は昼の談義も済みければ、客殿より直に帰らんと、兼ねて住持にも其儀を咄し、門前まで御出あるに、数多の老若押止め、何卒今一度御説法下されと、中々帰す気色有らざれば、祐天是非なく裏通りより飯沼さして帰りける。此由如何して聞えけん。信者は忽ち追駈来り、こは情なき祐天様、今暫時と止めければ、足を早めけれど、遂に追詰られ、広野の中にて大勢の為に、又一場の説法を始め、臨終往生の一大事を説き、安心決定の処、繰返し繰返し諭されたりしかば、老若男女感涙を流して歓びける。(略)」

と記されているように、薄い期待が一変し、次々と感動する説法を説かれ、当山本堂落慶入仏法要の後に当山檀信徒は帰山される祐天上人を追いかけ、最後の説法を懇願し、今の土塔の地(今の守谷市百合ケ丘周辺)にて説かれたとされております。

 その後、正徳元年(1,711年)12月、台命により大本山増上寺第36世法主に任ぜられ、数多くの業績を残された祐天上人は享保3年(1,718年)7月に81歳(82歳)にて御遷化されました。

 そして、祐天上人の遺言に従い、弟子の祐海上人により、草庵であった現在の東京目黒の地に祐天寺が開かれております。


(出典・引用)

 祐天大僧正御伝記、祐天上人御一代記、浄土宗全書、望月佛教大辞典、祐天上人伝(村上博了先生)

祐天上人坐像  祐天上人坐像

 江戸時代の初期、現在の茨城県常総市の羽生村に与右衛門という百姓が住んでいた。妻が早く亡くなったため、隣の横曽根村からお杉という未亡人を後妻に迎えた。お杉には助という3歳の連れ子があったが、この助の容姿があまりにも醜かったため、与右衛門は助を疎み、助もまた与右衛門が近づくと泣き出す有様だった。このため夫婦仲もしっくりいかず、思い悩んだ末、お杉はついに助を横曽根村と羽生村の境の堀割に突き落とし殺してしまう。翌年、お杉は女の子を産み、累(るい)と名付けるが、どうした理由か、その姿かたちは助そっくりだった。
「『るい』でなく『かさね』だ。」
 口の悪い村人たちは噂をした。累は年頃になっても縁遠く、そのうちに両親は相次いで病死、累は天涯孤独の身となってしまう。
あるとき、谷五郎という流れ者が羽生村にやってきた。累の家の近くの念仏堂で病に苦しむこの男を心根のやさしい累は看病した。病が癒えた後、感謝の気持ちもあってか、谷五郎は累の家の畑作業を手伝っていた。これを見かけた庄屋の勧めで、累は谷五郎を婿に迎え、名も与右衛門(二代目)と改めた。はじめのうちこそ累を大切にし、畑仕事も熱心だったが、根が流れ者の悲しさか、しだいに本性を現し、累を疎みだす始末となる。
 正保4年(1,647)8月11日のことである。
 与右衛門は収穫した大豆をひとりで背負う累を鬼怒川へ突き落とし、ついに殺してしまう。病で朝から寝込んでいたと偽る与右衛門とそれを信じた村人たちより、哀れな累の死は、その真相も暴かれることなく消えていく。
 累の家財産を手に入れた与右衛門は後妻を迎えるが、病死したり不仲になったりで長続きせず、7人目の妻きよとの間に、やっと菊という娘が産まれる。13歳の美しい娘に成長した菊は、従兄の金五郎を婿に迎える。しかし、翌年の正月、突然の病に苦しむ菊は狂乱状態に陥り、誰一人知るはずのない秘密を口にする。
「わたしは26年前、お前に殺された累だ。与右衛門よ。鬼怒川に押し込め殺された怨みを晴らさずにおくものか。」
 騒ぎを聞きつけ集まってきた村人たちに向かい、菊にとりついた累の怨霊は言葉を続ける。
「わたしの言葉を嘘と思わば、霊仙寺の清右衛門に聞け。与右衛門の悪業を見ていたはずだ。」
 ついに累の死の真実は明らかとなる。しかし、菊は相変わらず苦しむばかりで、その様を見かねた村人たちは弘経寺にいた祐天上人を頼んで怨霊退散の修法を行った。祐天上人の法力により、累の怨霊も、重ねて現れた助の怨霊も解脱する。その後、与右衛門は出家し僧となり、累と助の供養に残りの人生を捧げた。菊もその後は幸せな人生を送り72歳という長寿を全うする。怨霊解脱に力を尽くした祐天上人は芝、増上寺の大僧正となりその死後には弟子祐海上人の手により遺骨の納められた祐天上人の木像が刻まれ、法蔵寺に贈られた。


(出典・引用)

 常総市教育委員会編集の特別展資料「事件発生から350年"累"怪談に隠された真実」により引用させていただきました。

 昔、水海道の弘経寺の修業僧、祐天という者が修業を怠り怠けていたため破門されてしまった。祐天は、いまさら家にも帰れず途方に暮れ、宗旨が同じで幾度か訪ねたことのある雲天寺に縁を頼り、厄介になろうとした。雲天寺でも祐天の噂は耳にしていたから、おいそれと引き受けなかったが、祐天の必死の頼みで、住職もとうとう首を縦にふった。それからというもの祐天は、すっかり前非を悔い、一生懸命に修業に励み、立派なお坊さんになった。
 このことを知った弘経寺の師は、もともと祐天が憎くて破門した訳でなく、一時のこらしめのために破門したのであるからと、雲天寺の住職の仲立ちもあり、祐天の帰山を喜んで許した。そのころには祐天は、雲天寺の檀徒から「祐天さん、祐天さん」としたわれるようになり、その説教に随喜の涙を流す者さえある程の、信仰を名声を博していた。祐天が弘経寺に帰ると聞いて、檀徒の人々は最後の説教を聞こう寺に押しかけたが、祐天はすでに出立の準備を終えていた。
 しかし、人々は帰山の途につく祐天の後をついてきて、ぜひ最後の説教をしてくれと頼んだため、祐天もその願いを断ることができず、承諾した。それではと、傍らにあった大きな石の上に立って、ありがたい御仏の教えを説き、ようやく檀徒の人々も満足して帰っていった。それから、だれいうともなく祐天が立って説教をした石を説教石というようになったという。(現在はどこにあるか不明)


(出典・引用)

 守谷市公式サイト「守谷の民族」(「広報もりや」)より引用させていただきました。