織田・徳川連合軍と武田軍との長篠の戦いが起こった戦国の世、当山は安土桃山時代の天正3年(1,575年)に、載蓮社乗譽上人(載蓮社乗譽願求良谷和尚)によって開創されました浄土宗の寺院です。
山号を八幡山(はちまんざん)としており、院号、寺号を含めて正式には「八幡山清浄院雲天寺(はちまんざんしょうじょういんうんてんじ)」と称し、関東十八檀林の飯沼弘経寺(茨城県常総市;大本山増上寺別院)の末寺として開創されました。
飯沼弘経寺の末寺として開創されたことから、かつては「飯沼流」と呼ばれるお経やお念仏の称え方を用いていた時代があります。(現在でも飯沼流の称え方を用いる寺院があります。)
当時は、現在の守谷駅周辺(守谷市中央、本町)に5,500坪を超える広大な境内地を有しておりましたが、農地改革などにより、現在の境内地(約1,450坪)に至ります。
本尊は阿弥陀如来(立像)で、飯沼弘経寺に随喜されていた祐天上人をはじめとした多くの僧侶により、寛文9年(1,669年)本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の際に入仏供養されました。
現在では、祐天上人が大本山増上寺第36世御法主であられたお姿を刻まれた木像「祐天上人坐像」、祐天上人直筆の六字名号掛け軸、江戸時代中期に流行した十王説に基づき描かれた閻魔王などの地獄変相図「十王図」が残っております。
近代になり、明治7年(1,874年)には、守谷小学校の前身である中山学校が当山に設けられました。
そして、平成8年(1,996年)から9年(1,997年)に亘り、第40世住職により、現在の本堂、客殿、庫裏、境内の再建・落成が実施されております。
また、現在は関連寺院(兼務寺院)である淨泉寺と法務・法事等を共有して執り行っております。
※ 令和7年(2,025年)で、開創450周年になります。
左: 雲天寺 中: 飯沼弘経寺(大本山増上寺別院) 右: 大本山増上寺
祐天上人は、怪談話として有名な「新累解脱物語(しんかさねげだつものがたり)」や「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」に登場する名僧で、累の亡魂を成仏得脱させたことで名を轟かせ、江戸時代を代表する呪術師とも言われておりました。
寛文9年(1,669年)、当山本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の時、飯沼弘経寺より談義僧として祐天上人が訪れ、7日間にわたる説法「七ヵ日説法」を説かれました。
当時、祐天上人は年が若かった上、破れ衣に破れ袈裟の様相だったことから、当山檀信徒からは薄い期待の始まりでしたが、祐天上人は次々と感動する説法を説き、当山檀信徒から慕われ、そして飯沼弘経寺に帰山される際には当山檀信徒の懇願により最後に説法を土塔の地(現在の守谷市百合ケ丘周辺)で説かれております。
なお、祐天上人が手植えした桜と伝承される「祐天桜」の増殖した苗木が、平成30年3月に祐天寺より寄進され、当山の境内に植樹しました。
(参考)明顕山祐天寺 東京都目黒区中目黒5丁目24番53号
※ 祐天寺には祐天上人のお墓、累塚があります。
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令和元年11月 | |||
雲天寺 第41世 覚譽順一(下村順一) | |||
住職略歴 | |||
平成4年3月 | 大正大学仏教学部仏教学科浄土学卒業 | ||
平成9年7月 | 淨泉寺住職 | ||
平成16年4月 | 関東ブロック浄土宗青年会事務局次長 | ||
平成20年4月 | 茨城教区浄土宗青年会事務局長 | ||
平成22年4月 | 茨城教区浄土宗青年会副会長 | ||
平成25年4月 | 浄土宗茨城教区参事 | ||
平成27年3月 | 守谷市役所退職 | ||
平成31年4月 | 浄土宗茨城教区常総組組長 | ||
令和元年5月 | 浄土宗茨城教区児童教化連盟事務局長 | ||
令和元年6月 | 浄土宗関東地区児童教化連盟理事 | ||
令和元年11月 | 雲天寺住職 |